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錦織圭のランキング [スポーツ]

錦織圭(にしこりけい)。彼の名前は今や日本各地でしばしば語られ、その勢いは世界にまで広がるまでとなった。

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 5歳でテニスをはじめたという。筆者には一般の英才教育としてはやや遅くも思えるが、2001年5月には全国選抜ジュニア選手権で優勝した。同年8月には全日本ジュニア12歳以下で優勝し、史上5人目となる全国制覇3冠を達成した。全国のトップジュニアを毎年10数人集めて行うテニスの強化合宿「修造チャレンジ」に彼は呼ばれ、錦織圭と元テニスプレーヤーの松岡修造は初めて出会うことになる。この合宿では松岡修造が中心となり指導を行うのである。松岡修造氏はこの時に錦織圭の抜群の才能を見い出したという。錦織圭は5才もの上の身長差30cmの高校生と対戦し勝ってしまったという。これを機会に錦織圭は13才の時に渡米した。やや遅いスタートと思えるにも関わらず、こうした実績には やはり錦織圭の天才性を感じさせられる。
 錦織圭 は2007年10月のジャパンオープンでプロに転向した。2011年、上海マスターズでベスト4に進出し、世界ランキング46位という松岡修造の記録を大幅に更新して30位となった。また続くスイス室内の準決勝では、世界ランク1位であるノバク・ジョコビッチを破る快挙を成し遂げた。
 さらに2014年からの飛躍がすさまじく5月12日づけの世界ランキングでは9位を記録、世界のテニスプレーヤーのトップ10入りを果たした。3月2日に発表された男子テニス世界ランキングで、3位であったアンディ・マリー(イギリス)を抜いて自己最高の4位になった。
 2015年3月18日現在、錦織圭 はランキング5位であるが世界のトッププレーヤーの仲間入りをしていることには間違えはない。野球のイチローに続く球技界での快挙、日本人が欧米人と肩を並べ、さらにそれを上回るという実績を日々更新している。その活躍に感動するファンも多い。その驚異的な成績を築く 錦織圭 にはどのような背景があるのだろうか?

 錦織圭は1989年12月年も暮れようとしていた最中に生まれた。1989年といえば、日本では昭和という時代が終わり平成となり、欧州ではベルリンの壁が崩壊するという世界的にも新たな時代の幕開けの時でもあった。 そして、その生まれた年を反映するかのように錦織圭は今やテニス界の日本人の壁を崩し、世界の名プレーヤーの一人となった。
 錦織圭 の生まれた地は、まるで島であるかのように水で囲まれ「水の都」とも呼ばれる島根県松江市であった。この街の形はテニスをする選手がジャンプをしてまさにボールを弾き返す姿にも見えるのは筆者だけであろうか?少なくても地形からも彼のような人物を生み出したというだけの個性の強い街並みに見える。他に何かあるのではないかと思い調べてみれば、奇縁にも怪談で有名な小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーンが、ギリシャからアメリカに渡り、この松江の地に渡り住んだことが分かった。
 ハーンはこの松江の地をこよなく愛した。錦織圭がしばしば「言葉」に拘るのはハーンが残した文学香る土地柄からかもしれない。そして彼の渡米を導いたのはアメリカから来たハーンだったのかもしれない。そしてハーンの怪談のごとく、錦織圭はそれまでの日本の常識ではありえない程のテクニックで世界の強豪さえも脅す存在となった。怪物「エアーK」の名称はハーンの怪談から生まれたのかもしれない。

 しかし、現実には彼の凄さはどこから来るのだろうか?錦織圭の身長 は178cm、体重は70kgでテニス界ではけっして大柄ではない。テニスの試合時間は4時間にも及びことから体幹がしっかりしていてスタミナにおいて優れた面があることは伺える。しかし、それ以外の彼の強さはどこから来るのであろうか?錦織圭 の強さの秘訣を探ってみた。
 技術面では、専門家の見解を集めてみた。誰もが技術面の高さを分析しているが、筆者が一番なるほどと思わされたのは、元プロテニスプレーヤーで現在は日本プロテニス協会理事,慶應義塾大学庭球部監督を務める坂井利彰氏の分析であった。氏は錦織圭の強さは相手の裏をかく頭脳と思考法にあるという。このことは米紙も同じように分析している。ニューヨーク・タイムズ紙は2014年9月の記事では錦織の「日本人離れした特質」が快挙につながったと評している。
 ボクシングなどでは体重ごとに区分けさせ、その中でランキングが決められる。通常は技術だけでは勝負は決められないものだ。だがテニスにはその体重による区分も無い。同じ球技の野球にも体格の区分わけは無いが、一人のプレーではないので全体のバランスで体格の差は埋められると思われる。しかしテニスは1対1。いかに優れた技術があっても、普通の人間ならばその穴を埋めることは出来ないであろう。錦織圭 は優れた分析能力発想力も備え、むしろ小柄の体格を最大に活かして欧米の大柄な男たちと対等以上に闘っているのであろう。


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 このことは、島根県松江市に流れる欧米から来たハーンの文化の影響があったのかもしれない。ハーンはただの作家ではなく、日本の作品を海外に、海外の作品を広く日本に紹介もした。今日では同じく日本に帰化したドナルド・キーンにも例えられる。そうしたことで松江に日本とはかけ離れた文化の香りや発想が生じた可能性がある。生まれ育った土地柄が錦織圭に日本人離れした独自の思考法精神力の大元を作り出したと思えてくる。
 そして、錦織圭から感じるものは「精神の力」の強さである。筆者が特に彼の精神の強さを生み出すもので注目したのが「言葉の力」である。

 第一に思い浮かぶのが、詩人「相田みつを」の言葉である。錦織圭が影響を受けた言葉として相田みつを氏の作品「一生燃焼 一生感動 一生不悟」が紹介されている。

 同時に同じ「相田みつを」に惹かれ、錦織圭の師匠でもある元テニスプレーヤーの「松岡修造」氏の言葉がある。松岡修造氏の日めくりカレンダー「まいにち、修造!」(PHP研究所)には修造氏の端的な言葉が綴られているが、過去に同ランク史上最高だったAKB48カレンダー(2012年版)を大幅に超える売り上げをしている。日本中の人に影響を与えるその言葉は錦織圭にも大きな影響を与えたに違いない。

 そしてインターネットの普及による遠い地からの言葉。
 今の時代、遠い地にいても「家族や友だちからの励ましの言葉」を得ることが出来る。そして、ホームページやブログなどを通して遠い地でも錦織圭の「生の言葉」をファンが見聞きすることが出来,エネルギーを得た「ファンからの励ましの言葉」から錦織圭はエネルギーを得ているのだろう。かつての時代には考えられなかったようなファンと錦織圭が一体となる巨大なパワーが強靭な精神力を生み出している可能性がある。

 そしてコーチの「マイケル・チャン」からの言葉。彼の正式名はマイケル・ターペイ・チャン(Michael Te-Pei Chang,  中国語名 張德培)。1972年、アメリカ・ニュージャージー州生まれの元プロテニスプレーヤーである。シングルス自己最高ランキングは世界第2位。2013年12月に錦織圭のコーチ陣に加入した。それが錦織圭の2014年からの躍進に繋がった可能性が高い。
 錦織圭との共通点はただ単にテニスが抜群に上手いということだけではなく、同じ東洋系の人間であり、マイケル・チャンは身長175センチ,体重72キロとテニス界では錦織圭と同じく小柄で、時に人種差別に苦しんで来た過去もある。錦織圭も海外では罵声を浴びせられるなどの人種差別にあっている。同じような境遇を経験した二人にはお互い特別な想い入れが芽生えているに違いない。
 錦織圭はマイケル・チャンから「Believe yourself」(自分を信じろ)、絶対に勝てるというのを1日に何度も言われていると言う。その他マイケル・チャンの言葉に「勝ったときには謙虚さを、負けたときには潔さを」などがある。マイケルちゃんの言葉は錦織圭に大きな影響を与えているであろう。
 マイケル・チャンはアメリカ出身ではあるが、両親は台湾出身で、台湾は元々は中国である。マイケル・チャンは
民族的には中国人である。
 今現在日本と中国はけっして仲がいいとは言えない。しかし、大柄な欧米人に囲まれる中、錦織圭とマイケル
・チャンは元々は同じアジア人としての意識と友情が芽生え、強い相手に立ち向かうという初めての日中間の共同の傑作が生まれたものと筆者は思っている。政治経済もこうしたスポーツ界での傑作に見習うべきではないか?

 さらに遡ると遠い昔人類は皆アフリカの一地方で暮らしていた仲間であった。さらには全人類がただ一人の母の血(ミトコンドリア・イブ)を引き継いでいることも分かってきている。
 争うのならスポーツで、こじれた関係もスポーツで改善出来るのではないか?テニスや野球などのスポーツで近い地域で例えば日中韓で同じチームとなり、アジア対欧州、アジア対南北アメリカ、アジア対アフリカなどの試合があれば、スポーツ全体が盛り上がり、国家間の対立も少なくなっていくのではないか?
 私達に体内に眠るミトコンドリア・イブも日本を愛し欧米と日本の文化の橋渡しをしたハーンもきっとそう願うに違いないと筆者は思う。
 
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