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錦織圭と全米オープンそして松岡修造 [スポーツ]

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2014年、錦織選手は日本中を熱狂の渦に巻き込みました。
その熱が頂点に達したのが、全米オープン。
勝てば日本人史上初となるグランドスラム制覇となったあの試合です。
結果は惜しくも敗退、準優勝で終わってしまいますが、あの瞬間に日本中が錦織圭一色になったのは間違いありません。
準優勝でも、過去誰一人として日本人はそこに到達できませんでした。
そんな歴史的とも言える大会、2014年の全米オープンを振り返ってみます。

全豪オープン(オーストラリア)、全仏オープン(フランス)、ウィンブルドン選手権(イギリス)、全米オープンは四大大会と呼ばれ、この大会を制することは世界中のテニスプレイヤーの夢でもあります。
彼の全米オープンでの準優勝は、1918年の熊谷一弥以来、実に96年ぶりとなる快挙でした。

1回戦はW・オディスニク(アメリカ)。
当時世界ランク176位で、主催者推薦で出場を決めた選手です。
この試合は対戦相手に恵まれたといってもいいでしょう。
彼は、難なく快勝し、2回戦に望みます。

2回戦の相手はP・アンドゥハル(スペイン)。
結果はアンドゥハルの右手首の故障による棄権負け。
錦織選手は体力に余裕を残し、3回戦に進みます。

3回戦、L・マイェール(アルゼンチン)。
2014年の世界ランキングを90位台から20位台にまであげてきた成長株です。
試合は彼のストレート勝ち。
序盤からチャンスを作り、もぎ取って行くすばらしい試合運びで完勝しました。

4回戦は第5シードの宿敵、M・ラオニッチ(カナダ)
錦織圭が前回のウインブルドン4回戦で破れた相手です。
お互いに譲らない接戦となり、大会史上最も遅く終わった試合という記録を作りながらも彼の勝利。
2012年の全豪オープン以来のベスト8入りを決め、準々決勝に進出します。

準々決勝の相手は第3シード、スタン・ワウリンカ。
時間は午後4時すぎ。
試合は4時間を超える死闘となりました。
第1セットはワウリンカ選手の強力なサーブとストロークに苦しめられ、3−6で落としてしまいます。
続く第2セット、彼の得意なラリーに持ち込み第12ゲームでブレーク。
7—5でセットを奪います。
その勢いに乗って第3セットはタイブレークを9−7で制し、セットカウント2−1でリード。
再びタイブレークとなった第4セットを失い、勝負は最終セットへ。
最終セット、5−4の第10ゲームでワウリンカが痛恨のダブルフォルト。
マッチポイントをものにして勝利をつかみました。
2015年の全豪オープンを含め、過去4度の対戦で錦織選手がワウリンカに勝ったのはこの試合のみ。
14年の全豪オープンを制した世界最強の一角です。
この試合も、彼は「最後まで勝てると思っていなかった」と語っているほどので、まだまだ格上な感が否めません。
錦織圭が掲げるグランドスラム初制覇の大きな壁となる選手であることは間違いありません。


続く準決勝。
相手は世界ランキング1位、世界最強の男、ノバク・ジョコビッチです。
序盤から積極的に攻めていく錦織圭に対して、ジョコビッチは少しギアの立ち上がりが遅かったように見えました。
第1セットは6−4で錦織選手がとるも、ジョコビッチも第2セットから調子を上げてきます。
左右にゆさ振るボールとドロップショットで走らされ、1−6で落とします。
第3セット、第4セットと互角のラリーを見せる両者。
どこまでも王者のボールに喰らいつき、攻めの姿勢を崩さなかった錦織圭が7−6、6−3で制しました。
この試合の後、ジョコビッチは「彼(錦織圭)は隙のないオールラウンダーだ。彼は新たなレベルに到達した。称賛に値するね。」と錦織圭を称えます。
この勝利には沸きましたね。
この試合で日本男子で実に96年ぶり、自身初となるグランドスラム決勝進出を決めました。
しかも相手は世界ランキング1位。
日本列島は大騒ぎになりました。
ニュース番組も日刊紙も一面錦織圭。
全米オープンを独占放送していたWOWOWの新規加入者はふえ、スポンサーのユニクロで販売している錦織圭のユニフォームと同じデザインの服は飛ぶように売れました。
これはグランドスラム獲った!と日本中が期待に胸を膨らませました。

そしてついに決勝、相手はマリン・チリッチ。
錦織圭が苦手とする長身で体格の良いビッグサーバーです。
スタートから硬さを隠し切れなかった錦織圭。
3−6で第一セットを失うと、相手に勢いに乗られ、第2、第3セットも主導権を奪うことができず3−6、3−6でストレート負け。
残念な結果に終わりました。
当時ランキング12位の格下の相手に、すこし油断してしまったのかもしれません。
「いつもどおりやれば勝てる」と攻めの姿勢を忘れ、相手にのびのびとプレイさせてしまったのが敗因だったと分析されています。
グランドスラム決勝という大舞台に緊張もあったと思います。
マリン・チリッチはランキングでは格下でしたが、10年全豪オープンでベスト4に入るなど、実力は確かな選手。
以降ケガや禁止薬物使用による出場停止などで低迷した時期もあって、なかなかチャンスをつかめずにいました。
しかし、2014年からは母国の英雄、ゴラン・イワニセビッチをコーチにつけ完全に復活。
準決勝ではあのフェデラーを一蹴し勝ち上がってきた相手です。
「歴史的快挙」などと浮ついて挑んで良い相手ではありませんでした。
錦織圭自身が浮ついていたかは分かりませんが・・・。
結果、この試合でチリッチは錦織圭を破り、悲願のグランドラム制覇を成し遂げました。

表彰のスピーチで錦織圭は、
「全力を尽くしましたが、自分のテニスが出来ませんでした。
そして、マリン(チリッチ)に祝福を述べたいと思います。
初優勝おめでとうございます。
厳しい敗戦となりましたが、初めて決勝進む事が出来て、自分のチームに感謝します。
ここ2週間、本当に頑張ってくれました。
こうなってしまって残念です。
トロフィーは今日獲得出来なくて申し訳なかったのですが、次があると思います。
楽しい2週間でした。
スポンサー各社に感謝いたします。
このトーナメントを素晴らしいものにしていただき、また来年も来たいと思います。
ありがとうございました。」
と悔しい表情を浮かべながらも、チリッチを称えました。

錦織圭は試合後、自身のブログで緊張していたこと、体力を使い果たしていたことを告白しています。
特に「緊張で自分の力を発揮できなかったことが悔しい」と。
ジュニア時代から夢に見てきた舞台です。
平常心でいつも通り戦えたならそれこそ化け物というもの。
しかし、その”化け物”にならなければ、グランドスラム初制覇も夢に終わってしまうでしょう。
全豪オープンでは強豪スタン・ワウリンカの前にストレートで敗れ去りました。
しかし、その内容はテニスプレイヤー錦織圭の確かな成長を見せつけるものでした。
2015年日本人史上初のグランドスラム制覇に日本列島が沸く日も近いのかもしれません。

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錦織圭を語るときに、よく師匠として登場するのが松岡修造です。
子供の頃に彼が松岡修造にテニスを習ったことがあるのですが、師匠と崇める松岡修造の成績を悠々と超えて世界大会で優勝している。日本人初の優勝に辿り着いた唯一のレジェンドです。
日本人が世界の強豪を相手に優勝するという快挙は、とてつもない事ですね。
海外の選手とは、体系も違えば、トレーニングの仕方も全て違います。
松岡修造が現役時代にベスト4まで勝ち上がって日本人初の快挙などともてはやされていましたが、
ベスト4と優勝とでは、まったく意味が違いますね。
例えるなら、日本一高い山が富士山ですが、二番目に高い山はどこですか?という質問をされたとしましょう。そうしたら、あなたなら何と答えますか?おそらく分からないと答えるでしょう。
答えは、北岳です。ところが、日本で二番目に高い山など誰も興味もないのです。
まして、三番目、四番目に高い山など知りたいとも思わないでしょう。
この様になんでも一番でないと意味が無いのです。
錦織選手は、世界で一番になっているのです。それに対して松岡修造は、その他です。
優勝以外は、以下同文ということになってしまうほどです。
スポーツをやっている人が目標にするのに準優勝を目標とする人がいるでしょうか?
山に登るなら世界一の山、エベレストに登りたいと思う事でしょう。
世界一の高見から下界を見下ろす気分は最高でしょう。
錦織圭は、現在、まぐれで勝ち上がるのではなく100%実力で勝ち上がる力を持っています。
勿論、試合の度にコンディションであったり、運に左右されるということは充分にあり得るだろう。
それは、試合相手にも言えることで、その場での運に左右されることは多いだろう。
どんなに実力のある選手でも運に見放されていては勝ち残ることは出来ないだろう。
世界ランカーの選手のサーブの時の玉のスピードは、220キロも出ているが、
それを瞬時に見分けて身体を動かしレシーブをするわけだが、普通の人間ではとうてい無理だ。
おそらく動く暇もないだろう。こういった世界ランカーの選手というのは、いったいどのような練習をすれば、猛スピードの玉を見きる事ができるのだろうか?
錦織選手がレシーブの時には、脚をガバッと開いて腰を低く落として一見、そこまで腰を落とすとパッと素早い動きが出来ないのではないだろうかと思ってしまうほどです。
ところが、試合相手が猛スピードでサーブをしてきても俊敏に動き得意の相手を右へ左へと走らせる様に
玉を打ち分けていくのが錦織選手の特徴だろう。
錦織圭が全米オープンで優勝したり世界ナンバー1になるということが自然体になってきているのも事実だ。錦織圭の人気は、世界中で盛り上がっている。日本人が優勝するなどということが過去に無かったせいか凄い人気ぶりだ。
僕的には、テニスの聖地とも言えるウィンブルドンで優勝してもらいたいと願っている。
最終的には、ワールド優勝してもらいたいものですね。
僕が子供の頃にテニスといえば、マッケンローという選手の名前しか聞かないくらい優勝を重ねていた様な記憶がある。
錦織選手もこれから優勝に優勝を重ねて世界中でテニスと言えば、錦織圭という名前を轟かせてほしいものですね。

ATP自己最高ランキングは46位。
日本人選手として、「九鬼潤」以来の12年振りの年間トップ100入りを果たし、ウィンブルドンでは62年ぶりにベスト8に入るなど「世界に通用する日本人プレイヤー」として大きな注目を集めた選手です。
日本人としては長身の体躯から放たれる強烈なサーブを武器としたビッグサーバーとして活躍しました。
その活躍とは裏腹に、現役時代は多くの怪我に悩まされた選手でもあります。
試合中、両足が痙攣しているにも関わらず試合を続け、「シュウゾウマツオカルール」と呼ばれた新しいメディカルルールを作らせるほど。

現役を退いた後もジュニア選手の指導やテニス大会の運営、日本テニス協会の理事を務めるなど、日本のテニス界を牽引する存在であり続けています。
そして、その熱いキャラクターはスポーツキャスターとしても、バラエティー番組にも引っ張りダコ。
お茶の間の人気者でもあります。

錦織圭との関係は、錦織圭がまだ小学生の時代にさかのぼります。
もともと高い才能を有し、全日本ジュニアテニス選手権大会(12歳以下の部)の3大会で優勝。
その活躍が目に留まり、松岡修造が開催する強化合宿「修造チャレンジ」に参加したことがきっかけです。
修造チャレンジの詳しい活動内容は、テニスを子供から大人、高齢者まで家族みんなで楽しむことのできるレジャースポーツとして全国に普及していき、家族のより良いコミュニケーションの場を提供するとともに、テニスの普及・活性化を通じて全国的なスポーツ文化の定着に寄与していくというもの。
錦織圭が参加したのはその活動の中のひとつ、「トップジュニアキャンプ」でした。
松岡修造と日本テニス協会の強化本部およびジュニア育成本部との共催で、世界を目指すトップジュニアを対象とした強化キャンプです。
その選考基準は厳しいもので、全日本クラスの大会で優勝、準優勝をした選手のみが参加することができました。
錦織圭が参加したのは2001年。
この時から松岡修造は、「今までの日本人選手にはない」と語るほどの才能を錦織圭に見て取っていたようです。
錦織圭も「修造さんにはたくさん怒られましたが、それが今も原動力になっている」と当時を振り返ります。
錦織圭はその後IMGのニック・ボロテリー・テニスアカデミーにスカウトされ、すぐに海外へ留学。
以来、IMGのあるフロリダを活動の拠点としています。

バラエティーではよく錦織圭の師匠!なんていう触れ込みで登場することの多い松岡修造。
接点はこの修造チャレンジのみで、師弟関係が全くないと言うほどではないものの、師匠かと言われれば首を傾げてしまいます。
実際、松岡修造自身が「俺は錦織圭の師匠だ!」というようなことを言った所は見たことがないので、テレビ業界のテキトーさというか、盛り上がるならなんでもするというスタンスが見え隠れしていてあまり気持ちの良いものではありませんね。
とはいえ、テニスといえば松岡修造といわれるほど結果を残した選手であり、錦織圭と同じように日本のテニス界を背負ってたったのも事実。
松岡修造本人も、相当な思い入れがあるのでしょう。
熱く錦織圭の活躍を応援する姿には、日本人なら誰もが共感するところでしょう。
錦織圭が世界一位のジョコビッチ選手を追い詰めた試合でも、
「テレビで試合を見ていたが感極まって涙が出た。
とにかく攻め続けたことがよかったし、あそこまでジョコビッチ選手を追い詰めた選手はいなかった。
世界に衝撃を与えた」
と熱いコメントを残しています。

修造チャレンジに参加した11歳の頃から「グランドスラムで優勝したい」と高い目標を掲げていた錦織圭。
松岡修造も当時をよく知っているだけに、感動はひとしおだったのでしょうね。
錦織圭も松岡修造に対する感謝の意を伝えています。
師弟関係というよりは、世代を超えた協力関係といった感じでしょうか。
錦織圭と松岡修造の関係の根底には、お互いを一人のテニスプレイヤーとして尊敬している気持ちがあるような気がします。
松岡修造に至っては、いつだったかオシャレイズムに出演し、錦織圭のことが話題に上った時には「俺と圭を比べるな」と怒りを表したほど。
「圭はベスト8からどんどん行く選手。
僕はまぐれで一回跳ねた人。
全然テニスの才能が違う。
僕は11歳で彼を見た時から、いってみれば才能の師匠。
教えたことなんて一回もない」
と言っています。

あるインタビューの席では、
「圭、ありがとね。
俺、全然ワールドグループ入りできなくてさ。
本当に嬉しかったよ。
すごいね。
やっぱり。
圭凄いね。
ごめんね、小さい頃、偉そうにしちゃってたから」
と謝罪する場面も。
松岡修造にとって、錦織圭がどれほど偉大な選手かが伺えるエピソードです。

錦織圭も修造チャレンジについて
「あの修造チャレンジのおかげで世界を目指すことができて、グランドスラムも小さい頃から意識してやっていたので、本当に修造さんのおかげです」
と敬意を表しています。

一方、修造チャレンジのほうでは錦織圭の活躍に希望を持つジュニアがたくさんいるのだとか。
全米オープンで活躍する錦織圭をみて「アジア人でも、僕ら日本人でも出来るんだ」という声がたくさんあがっていたそうです。
これを受けて錦織圭は素直に「世界にたいする精神的な壁をひとつ越えられて嬉しい」と笑顔で語っていました。
松岡修造、錦織圭に続くトッププレイヤーが生まれる日も遠くないかもしれません。


そして松岡修造氏といえば、太陽を連れて歩く男として有名です。
2015年、全豪オープンでは30度を超える暑さに苦しめられた錦織圭。
「簡単ではなかった。暑かったし、つらい戦いでした。」
「集中しなきゃいけないときに、完全に集中できなかった。
フラフラしているときもあった。」
と、暑さにやられて弱気なコメントが出てしまうほど。
この事態を受けて松岡修造はこう語っている。
「自分で言うのもなんだが、今日の天気は松岡修造だった。」
名言が生まれた瞬間でした。
ネット上でも話題になり、松岡修造の公式サイトのサーバーがダウンしてしまうほど。
そしてこの時期、日本は史上最大とも言える大きな寒波に襲われていたのでした・・・。

恐るべきことにこの現象は今回の全豪オープンだけではありません。
2013年ゴルフ全米オープン、昨年のソチオリンピック、その4年前のバンクーバー五輪でも同じ現象が起きています。
修造が訪れた国は暑くなり、いなくなった国は寒くなる。
世界的な現象の他、猛吹雪の続く中、修造が訪れた一地方だけは快晴になるなど、その力は凄まじいものがあります。
ツイッターでも「今日、なんか寒いな」と思ったら修造が海外に居たというツイートが至る所に・・・。
恐るべし松岡修造。

日本を代表して錦織圭を熱く応援する松岡修造。
その熱さを力にかえて、日本全土を熱狂させる錦織圭。
2015年はどんな感動を届けてくれるのか、本当に楽しみですね。

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